編(アム)

30代半ばの留学してる話

誰に聞いたらいいの!?ソーシャルワークと社会政策

色々知識を蓄積して、そのアウトプットとしてnoteを活用したいと思っていたのですが、全然蓄積されていません。私のnoteのイメージは「他の人が知らない・思いつかないけど自分だけが知ってる・思いついたことをシェアする場」みたいな感じなのですが、今回の投稿は「誰に聞いたらいいの!?」っていう、皆様への質問です。きっと私のnoteにたどり着く人はかなり少なく、その中でもこの質問に答えてやるゼ!な人はさらに少ないと思いますが・・・。

 

私はソーシャルワークを勉強したく、まず短期のソーシャルワークに関する講座を受講しました。資格につながるわけではないけど、基礎知識は身に着くかな、と。そこでの学びは

 

ソーシャルワーカーにはCode of Ethics(倫理規定)がある(大体は国ごとに)。所属先関係なくそんなのがあるって、すごくない!?私が今まで知らなかっただけ!?しかもその内容、私が大事にしたいことと一致してるぅー!それがprofessionalism、仕事になるってこんな素敵なことある!?


ソーシャルワーカー社会福祉士。職業タイトルに関係なくソーシャルワークを実践することは可能ではある。でももちろん資格がないと就けない仕事はたくさんある。


・しかしソーシャルワーカーにできることは政策に左右される。ちなみに戦後、日本の社会福祉政策が充実したことはない。

 

特に3つ目の点について、これほどエビデンスのないアホな文章もないよな(汗)、と思いますが、政策についての講義を受けて私はこういう印象を受けました。

 

社会正義を実現したくても政策に負かされるということですよね。そこで私はソーシャルワーカーが政策に影響を与え得るのかどうか、他国の事例を調べています。といってもドンピシャの情報はなかなか見つかりませんが・・・(そして日本と他国を比較した論文・文献もあまり見つからず)。

 

まず出てきたのはSocial Workers Affecting Social Policy: An international perspective (Gal, J., Weiss-Gal, I. (2015))。オーストラリア、イタリア、イスラエル、ロシア、スペイン、スウェーデンアメリカのソーシャルワーカー育成制度やソーシャルワーカーによるpolicy practice(政策実践)を紹介しています。まだ読み終えていませんが、どの国もやっぱり「ソーシャルワーカーは政府機関や政府からの助成を受けている非営利団体で働いているから、あんまり政策に物言えない風潮がある。ソーシャルワーカー自身のマインドセットとしても個人の問題解決に注力したいので規模の大きな働きかけは自分の役割ではないと思っている」というのが要約になるかと。

 

ちなみにsocial policy(社会政策)はpublic policy(公共政策)の一部で、

public policy and practice in the areas of health care, human services, criminal justice, inequality, education, and labor.
- Rittel, H. & Webber, M. (1973). Dilemmas in a General Theory of Planning. Policy Sciences 4:155-169

 

ソーシャルワーカーの活動分野に関わる政策という理解でよさそうです。これもちゃんと調べないといけないですが。

 

私は今、大学院のコースを検討している段階なのですが・・・ソーシャルワーカーになるためにMaster of Social Workに進むのか、ソーシャルワーカーになっても政策に負けるのであればいっそ、社会政策そのものを学ぶべくMaster of Social Policyにすべきなのか。

 

Master of Social Workのメリット:
・資格を得られる
・資格があるから就職につながりやすい(私は非営利セクターで働きたいと思っているのですが、非営利セクターの採用情報にソーシャルワークや心理系の資格が求められることが多い印象)
ソーシャルワーカーになるための科目が網羅的に学べる

 

Master of Social Workのデメリット:
・2年で資格を得るために資格勉強のようなカリキュラム構成である
・政策を取り上げる時間が少ない・もしくはない大学もある
・私の大卒学位では入学できない大学が異様に多い

 

Master of Social Policyのメリット・デメリット:
・Master of Social Workの裏返しという感じ。資格ではないので就職が未知数、でも学問としては面白そう。

 

私の大学院留学の目的次第ですが、迷っています。留学した後に現地の非営利セクター、できればアドボカシーをしている組織で経験を積みたいという希望があるので、そのための就職を考えるとMaster of Social Workか。現地就職せずに日本で再就職(今の職場でまた雇ってもらえるかも?)なら、Master of Social Policyか。

 

それぞれ、大学とコースは定まっています。やはり公共政策でなく社会政策どっぷりのMaster of Social Policyと、私の大卒学位でも入学できそうなMaster of Social Work。どちらも意図せずとてもレベルの高い大学院なので、まず受からない可能性が高いのに悩まないといけないという。。笑

 

どうしたらいいの!?誰か、ヒントになる考え方や事例を教えて下さる稀有な方がおられれば・・・または誰に聞いたらいいか、提案があれば、お願い致します!!!!

 

 

この記事は下記のnoteからの転載です。

note.com

今は無事に、そして謎にMaster of Social Workに合格致しましたー!

 

「昨日までの世界」と今日の世界

ジャレド・ダイアモンド氏の『昨日までの世界』を読んでいます。英語版のタイトルは"The World Until Yesterday"。タイトルが魅力的過ぎて、そして記憶力がなさ過ぎて、日本語版と英語版の両方を買ってしまったのです。

 

"The World Until Yesterday"では、ニューギニアで長年調査をしてきたダイアモンド氏が、その経験を通じて、過去数十年で「現代」に連れてこられたような社会を持つニューギニアと、数百年掛けて「現代」を築いてきた欧米社会を比較しています。

 

アメリカ人であるダイアモンド氏から見ると非合理な行動や考え方は、「昨日までの世界」、つまり欧米が過去に置いてきた世界においては、説明がつくものなのです。例えば、「ニューギニア人はめっちゃよく喋る」。これは、ダイアモンド氏によると、本やラジオ、テレビ、インターネットなどの情報源がない社会では、お互いの情報交換が極めて重要であることに起因とのことです。

 

なるほど、本やラジオ、テレビ、インターネットがなくて当たり前の世界では取り留めなく話すことすら大切な情報源なのか。

 

そこで私がふと思ったのは。おぉ、今時(特に私がTwitterでよく目にするツイートに限って言えば)よく言われている「本は教養なんだからたくさん読め!」「本をたくさん読んでいる人との会話は教養が表れて面白い」「本を読んでいると人生が充実する」などなど、本を読む=正義という価値観と違う世界や!です。

 

本がある世界があるいうことは本がないという世界もあるわけで、そこで「本がある世界に生まれて恵まれているな」と思うのではなく、「本がない世界では会話をたくさん持つことが合理的なのね。なるほど」と受け止めました。むしろ本のない世界ならこんなに日々追われるように読書に時間を費やす必要がないのか…いや、でもその代わり人とたくさん話さないといけないのか…どっちもどっちやな…みたいな。笑

 

私は人見知りなので知らない人と積極的に話すことは苦手なのですが、今の世の中、どんどん会話しなくても成り立つようになっています。それに反比例して、日々生まれる情報量はとてつもなく多く、「文明の開始から2003年までに作られた情報量と同じ情報量が2日で作られる」とエリック・シュミットが言っていた、とケン・ロビンソン氏の『才能を磨く 自分の素質の生かし方、殺し方』に書かれていました(又聞きー!)。

 

もう、確かに。ほんま。用事もないのにインスタ、TwitterFacebookを見る(TikTokは苦手)。更新するたびに新しい投稿があり、少し目を離すと「また新しい投稿あるかな」と確認したくなる。本を読んでいてもウズウズ。そして最近太り過ぎなので、ダイエットサークルみたいなオンラインサロンに入って、そこの動画を流す。さらに昨日NHKプラスに追加料金なしで入れると知ってインストール。情報溢れまくりですよ…。少し情報源を減らして、オフラインの時間を増やしたいなと思いつつnote書いてーーる!

 

私が一番見るのはインスタです。大好きな友人や家族の様子を窺ったり、ダイエット情報やレシピを探したり。でも雑音もすごく多い。個人的にはTikTokからの転載とか(苦手やから。笑)、他の人のリポスト、既にガリガリの人のダイエット情報とか、私の目的と違うんですね。パーソナライズがもう少し進化したらマシになるでしょうか。

 

インスタはビジュアル寄りなのに反して、Twitterは文字情報メインなので流し読みをして気になる情報をスクリーンしやすいとは思います。が、自分がフォローしている人がやたらいいねする人だったら、興味ないツイートもたくさん溢れて困っています…。

 

これはデジタルデバイスに奪われた家族や友人との時間を取り戻そうという話ではないです。いくらパーソナライズが進んでると言っても、自分にとって大切だと思われる情報が目や耳に入るように意識的に操作しないといけないな、その方法を探らなければいけないな、という自戒です。

 

『昨日までの世界』トークが変な終わり方になりますが、今日の世界にいる身として、そして多分残りの人生数十年もその世界にい続ける身として、もう少しスマートに情報のスリム化を図りたいと思います。

 

この記事は下記のnoteからの転載です。

note.com

不寛容な私はソーシャルワークを学びたい

noteの運営さんの対応が批判されており、その内容を色々な方のまとめや説明で拝読しました。これは他の媒体への投稿を検討する機会になるかなと様子を見ている間に年が明けましたね。

 

結論としては…決まっていません。運営の方々の価値観で納得いかないところは散見されるような気がするものの、今後よくなるかもしれない。

 

ただ、商品やサービスだけでなくその開発者や販売会社の理念とかを応援して利用することが増えてきたので、自分が利用し得る商品・サービスについて、その売り手の考え方を追及することをやめてはいけないなと改めて思うようになりました。

 

さて、私はソーシャルワークを勉強したくて、その理由の正当化を日々考えています。正当化というか「何でソーシャルワーク?」の説明を考えています。

 

最初はコロナで日本の学校が閉鎖したことに急に不安を覚えたことがきっかけです。学校って、学力をつけるのはもちろんで、そのためにタブレット端末を配布するとか、端末だけでなくWiFiが要るでしょうとかいう議論がされていたところです。でももっと気になったのは、「学校にしか居場所がない子はタブレット端末やWiFi環境があっても意味がないのでは?」ということ。

 

結構居場所という概念に関心を持っているんだなぁと改めて再認識した瞬間でした。自分のことでいっぱいいっぱいな私自身が自分のための居場所探しに必死だったからかも?まだここは不明。

 

新聞を読んでいるとコロナによって子どもを取り巻く状況がどんどん苦しいものになっているとの記事が日々増えていきました。休校により給食がないから栄養のある安価な食事を代替で提供する必要があること。シングルペアレンツがコロナで職を失い子どもにも影響を与えていること。

 

そんな、明日の暮らしすら苦しい状況に陥る人が毎日増えている中で。私の仕事は「未来のために頑張ろう」系で(何それ)、未来のために今コツコツ頑張ることを推し進めることから、頭がよくて社会的に「いい」位置におり、未来を築く力と意欲のある人と働くことが多いのです。一方、コロナによりさらに可視化された「未来を夢見る余裕がない人達」の存在。可視化といっても、ずっと苦しい思いをしている人達はおられたのだと思いますが、私が見ていなかっただけ。

 

そしてそういった存在の人達(英語でmarginalizedとよく表現されている)と歩むことについて学びたい、と考え、ソーシャルワークに興味を持ち始めました。

 

でも私の性格はとにかく自己中で余裕がなく他人に対して不寛容なのです。それってソーシャルワークの大切な価値観の正反対です。でもだからこそ学びたいのかも。本当に自分にうんざりしている私は、これまでも勉強や仕事を通じてその穴埋めをしたいと考えてきました。

 

その辺りかな。さらに言えば、日本の社会福祉士という資格のための勉強というよりは、学問として学びたいし、法律や政策で守れない人達にリーチするために市民団体サイドの取り組みについて学びたいとも思います。でも苦手な法律を理解できないと、リーチしても正しい方向に物事を進められないのも事実。

 

この考え方がストンと腑に落ちてから、仕事でも不寛容度が少し減ったような気がします。仕事が苦手な同僚に対して優しくできないことをかなり引きずっているのですが、ソーシャルワークについて学ぶことで実践として他者の受容をできるといいな。。

 

この記事は下記のnoteから転載したものです。

note.com

怒りの根源は共感の不在?

当たり前といえば当たり前なのですが、セクハラっぽい発言に異様に腹が立ったので、何故なのか自分なりに考えました。

 

事の発端は、詳しく言うと発言した本人の不利益になるため、またその不利益を私は求めていないため、ちょっとフィクションを加えて説明します。

 

仕事の関係者とほぼプライベートな話をしていた時に、「女子が◯◯しているのを(性的に燃えることとして)意識しないようにするのが大変」という発言がありました。

 

自分が対象の発言じゃないし(あたい女子じゃない笑)、その場には他の方もいて、その発言は私に対してのものではありませんでした。

 

でもそれを聞いた私は「キモ!!」と引いて、同席していた他の方に後ほど「あの発言を私たちにしたのが許せないんです」とメッセージをしました。するとその方は「確かに自分に関してあんな発言されたらトラウマものだ」と返事をくれましたが、私の「私をどーにかするための発言ではないのに異様にキモい」という気持ちの共有には至っていないなと思わされました。

 

そこで突き詰めたところ、他のエピソードを思い出しました。

 

痴漢に遭ったことがないという、女にしてはとてもラッキーな経歴を持つ私ですが、それと非モテが相まって「私は女として見られない」という前提が身についていた24歳くらいの私に起こった不快でした(女として見ることと痴漢が同義だという意味ではありません。一時期同義に考えていたアホな時期もありましたが)。

 

当時の男性上司と就業時間後にエレベーターが一緒になった際、彼は「最近眠くて仕方がない。夜寝る時も本とかを読もうとしてもすぐに寝てしまう」と言いました。そして「あなたが隣で寝てくれていたらギラギラするのに」と言ったのです。

 

私は当時、セクハラ発言にいちいち目くじらを立てることを「かっこ悪いこと」と思う傾向にあり、とっさに「えー逆に魅力がなさすぎてさらに入眠が促進されるかもですよー」とか返したように思います。

 

その発言について深く傷付いたのに。

それからもその職場を去る間際まで、その出来事を誰にも言うことができませんでした。

 

何故傷付き、ただのエレベータートークを誰にも打ち明けられなかったのか。

今回の怒りと当時の傷付きに関連しているのは、私を隣で寝る存在として見る人間がいるのかという驚きと、「そのような発言を私にしても許されると思われていることがショック」ということです。

 

当時の上司は仕事に厳しく、家族を愛し、みんなに信頼される人でした。仕事中も飲み会でも、パワハラはあってもセクハラは一切なく、パートナー以外に性的なアテンションを払うことについて発言するというのが、私の中の彼の像の枠を超えていたのだと思います。そんな彼が「あなたが隣で寝ていたら」発言をしたことを知った時、意外だし気持ち悪いし、他の人に伝えた時もかなりのショックをもたらしました。

 

一方、今回の仕事の関係者は、単身赴任をしているから家族と会えず欲求不満なのか何なのか、そういう発言も以前からチラホラと聞かれていました。でも、だからといって何で私がその発言のオーディエンスにならないといけないの?と私が違和感を持っていることが原因だと気付きました。私、あなたの欲求不満に付き合う筋合いありませんけど、と。

 

でもこの問題はとても難しいです。私だって誰かのことを面白おかしく言ったりその人について愚痴ったり、そしてそれを聞いた人の心に重い鉛をもたらしている可能性です(単細胞のドラマクイーンなので)。

 

当たり前です、その発言が共感を呼んでいないので。これらの発言をした人達は、その発言をしてもいいという前提で話しているのに、その前提は相手にとっては存在しないものなのです。

 

この結論は「そりゃそやろ」なもので、セクハラ関係なく全ての発言に適用されるものです。それと同類かと思ったのは、歩きタバコと走りタバコが許せない件。

 

私も元喫煙者としてタバコに文句を言う権利はないかもしれませんが、辞めた今、知らない誰かのタバコの煙を吸うのが本当に嫌です。

 

特に歩きタバコと走りタバコ。何で自らが歩いた/自転車や自動車で走った軌跡に副流煙残すの?と。

 

特に私が今住んでいる地域はそれが多く、小さな駅からの一本道、1回の電車から降りて帰宅する50人近くが歩く道で、先日はわざわざ一番に改札から出て、先頭を切って歩きタバコをする人を見かけました。走って抜かしましたけど。

 

吸ってる本人からしたら、満員電車から降りてやっと吸える命の煙ですよね。わかるわかる。でも

私がその煙のオーディエンスにならないといけない理由はどこにもない

 

それでセクハラ発言も、歩きタバコや走りタバコの副流煙も、それをしていいという共感をしていないから腹が立った、傷付いた、キモかった、と言えるのではないでしょうか。ハラワタが煮え切る理由は私に選択肢が与えられていないことということがわかりました。

 

確かに夫のせいで行動に制限がかかるとか、めっちゃ嫌ですもの。。だから自由な仕事で自由な私生活を野生的に送っているんですね。納得納得。

オーストラリアの大学教員を困らせた話

名前を「全体的に暗い」に変えました。noteでは大学院留学を目指す過程を残そうかなと思って始めたのですが、諸事情によりまだ目指し「始め」に至っておらず、必然的に過去を振り返り記録をする投稿になっています。そして振り返ると、それは…「全体的に暗い」、です。

 

なぜか中学から高校、大学、さらに20代後半になるまで性格がとても暗く、ネガティブに生きてきました。生きるテーマは「世の中になるべく迷惑をかけない」というマイナスなもので、そのテーマすらも「自分は世の中に迷惑をかけているなぁ」と気付かないままネガティブな自分を受け入れてくれない世の中にキレていたヤバい時代を乗り越えた故のテーマでした。

 

さて、そうやって自分のネガティブさが異常なことにも気付かず、周りにキレまくっていた時の話です。

 

私は高校で国際系の科に所属していて、当時の英語の先生が、オーストラリアのアデレード大学の教員にオンラインで英語を教えてもらったり、現地学生と交流できたり、という試験的な取り組みを授業に導入してくれました。導入にあたって高校の先生もさぞかし知らないところで頑張ってくれていたのだと思いますが、そんな苦労もつゆ知らず、「先生顔が赤い」とか見た目をいじってごめん。「アトピーや!」と返事させてもっとごめん。

 

暗すぎて記憶が確かではないのですが、「どんな30歳になりたい?」という質問に英語で答える授業がありました。そこで卓越した暗さを発揮した私は、

私は30歳まで生きたくない。そんなに歳をとっても楽しいことなんてないだろうから、早く死にたい。

と書いたのです。高校1年生で、わざわざオーストラリアからつたない英語を見てもらっている立場で、めっちゃ暗い!!!空気読めない!!!

 

その時の先生の返事は

そんなこと言わないで。私は30歳を過ぎているけど、人生には楽しいことがたくさんあるわ。

みたいな感じだったと思います。その時に「うわっ、ごめん!!30歳を年寄りみたいに言ってごめん!!」と少し思ったような気がします。

 

当時はまだ15〜16歳で、30歳なんてすこく先のことのように思えて、それまで自分の精神が持つとは到底思えなかったのです。そして「それまでには死にたい」という発言が持つ破壊力も理解せず、ある意味イノセントでナイーブだったようにも思います。

 

今はすっかり30歳も超えて、昔より好奇心があり、大学院に行きたいと思える程度には人生を充実させる意欲もあります。むしろ20代に戻ってワーホリとかしたいし、大学院留学だってもっと前に覚悟していればしがらみも少なかったのにな…と思うほどです。

 

当時はつゆほども興味のなかったオーストラリアですが、留学ではオーストラリアに行きたいと思っています。当時、顔も知らないとにかく暗くて発言がヤバい高校生を励ましてくれた(というか励まさざるを得なかった?)あの大学教員の方にも、そのupsettingな高校生が少しまともになって生きているということを伝えたいなぁ。名前も覚えていないけど。

 

これは下記のnoteの記事から転載しました。

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30代半ば、現時点では子どもを持たないかもしれない

私はミクロからマクロレベルで世間に色んな心配事があるので、子どもを産む気がないです、と当時の彼氏(現在の夫)には伝えていました。

 

欲しくない理由は

  • 自分にコンプレックスがあるので、それが遺伝したらかわいそう(「お母さんのせいでブスやん!」「お母さんのせいでアホになった!」とか言われたら最悪や…)
  • お金がない。子どもが海外、しかも先進国の4年制大学に進みたいと思った時に、「行っていいよ」と背中を押せるか?うーん、奨学金とかもあるけど、うーん。
  • 子どもに「ゲーム買って」と言われた時の対応、どうしよう?(買わないと友達と遊べない世の中になっているのを感じるけれど、知人が「うちの子はゲームの中で人を殺してて…」と苦悩しているところを見て、心配)
  • 長く続いている現政権にうんざりしている。こんな政権がいつまでも選挙で勝つ世の中に子を産み落としていいのか?
  • 地球を破壊するライフスタイルが蔓延していて、自分ももちろんその一部となっている。SDG sとか言ってるけど、それを子どもに担わせるのは荷が重いのでは?(むしろ世の中を変える人になって欲しいがために産んで育てる!?とか考えたこともあったけど、それこそ重荷…)

と、ヘンテコな頭の中で色々考えて、前向きに産めないのです。もちろん産むと決意した人のことは本当に尊敬するし、私が産もうと決意したからと言ってできるとは限りませんが。

 

このような背景は夫に伝わっていて、本人も最初の方は「そのうち気が変わるだろう」と思っていたようですが、だんだん「僕はあなたがいれば子がいなくても大丈夫」といった発言をするようになりました。

 

彼は家族大好き人間で、結婚したら自分も自らの親のように子どもを数人迎えて、、という風にもともと考えていたと思います。でも私がなかなか意見を変えない(というか下述のとおり、産む方向に気が向いてもすぐ気が変わる)ことから、だんだん子どものいない生活をイメージしやすくなった模様です。お金のこともあるしね。

 

上述の「産まない理由」もありつつ、実は私の頭の中のホットイシューは日々変わるため、先日は「産むことを前向きに考えるか!?」というマインドになり、夫と話してみました。

 

結論から言うと、私にもう少し勉強したいという気持ちがあるのを知っている夫から「その選択があなたのやりたいことを阻まないのであればいいけど」と意外な言葉が。

 

うちは共働き前提の家計設計なので、産んだら子育て+仕事+家事を2人で分担しながら、私は勉強をする、ということになります。それくらいできる、と言ってみたいものですが、子育て中の方のお話を聞くと難しいだろうなという想像は簡単につきます。

 

「僕はあなたの子どもならすごくかわいいだろうと思うし、すごく楽しみでもあるけど」と言う夫との子がもしこの世に生まれたら、どっち似かな?どんな性格かな?名前は何にしようか?と色々想像も膨らむのですが、なかなかマイナス要素が膨大で、即決できません。

 

調べていると、産みたいのに授からないという声や、産まない選択をしたが周囲との意識の差に絶望したという声が多く見られたように思います。少数ですが「産みたいかどうかわからない」というブログ記事などもありました。もちろんブログを読んだからといって私の答えが出るわけではなく、そうやって悶々考えているうちに産むタイミングを逃しそうだな〜と今から思っています。

 

同年代や、年下の子たちが産み始めているのを見て焦るという気持ちも特になく。先日、夫の妹さん(20代)が真剣なお付き合いをしている人がいて〜、という話を聞いた時に、「あ、先を越されたら複雑かも」と一瞬思いましたが、今はどうでもいい。

 

いっぱい考えてもその時のノリで意向が変わってしまうので、あまり自分の決断を信頼していないのもあります。

 

これは下記のnoteの記事から転載しました。

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