編(アム)

30代半ばの留学してる話

オーストラリアについて調べる時によかったリソース

私はオーストラリアにワーホリで10か月くらい住んでいたことがあるのですが、特に何もオーストラリアについて学ぶことはしていませんでした。

 

語学学校すら行かず(お金ないし、英語学ぶのにお金を払いたくなかったし)、日本語が通じるバイトして日本人がいっぱいいるシェアハウスに住んで、日本人としかつるまなかったといっても過言ではありません。

 

まぁそもそも友人を「作る」というのが昔から無理で、「ワーホリしたんだし色んな場所の人と交流するぞ★」みたいな飲み会とかランゲージエクスチェンジから逃げていたので、バックグラウンド関係なく全体的に交友範囲は狭かったのですが。

 

(WWOOF:World Wide Opportunities on Organic Farmsという、オーガニック農家のファームステイは数か月しました。そこでも日本人多かったなぁ~その話はまたどこかで。)

 

オーストラリアに何万年と住んできたアボリジナルな人々やトレス海峡諸島民(英語圏ではアボリジニという呼び方は差別的ということで、First Nations Peoplesとここでは呼びます)について関心も関わることもなかったのですが、今悔やんでCourseraで学んだり本を読んだりしています。

 

 

これはシドニー大学が提供するコースなのでシドニー圏(Eoraという総称の人々がいた。その下に更に細かく部族が分かれていた)の文化の話ですが、いつか他の土地のコースも展開されるといいな、と思います。日本語字幕もいつかつくといいですね(他人事)。

 

本は、下記4つ。

アボリジナルであること-オーストラリアにおけるFirst Nations Peoplesへの教育について、特に滅びゆく言語を継続するための取り組みの紹介をしています。

隣のアボリジニ 小さな町に暮らす先住民文化人類学者である著者がFirst Nations Peoplesについて調査したいけど、なかなか「あなたたちを調査させて下さいな」と言い出しにくくてモジモジしてしまう。でも地元の方々が少しずつ心を開いてくれて、色々教えてくれました、という流れで展開されています。丁寧なインタビューで、First Nations Peoplesが直面してきた苦しみを個人の体験として捉えられるようになります。

 

 

アボリジニーの国 オーストラリア先住民の中で-もうこれすごい!好き!(リンクは他の方が書かれた書評です。この書評については読んでいません)

 

当時あまり日本から来たオーストラリア在住者はいなかったはずですが、著者の中野不二男氏はFirst Nations Peoplesとは関係のない仕事でシドニーに住んでおられたところ、彼らの存在について疑問に思うところがあり、少しずつ距離を縮めて、いつしか国からお金をもらってFirst Nations Peoplesのコミュニティに関する調査を進めるようになって…という展開がもう、「え?この人FBI!?」って疑いたくなるようなものなのです。

 

もちろんFirst Nations Peoplesが当時直面していた問題について捉えているという点は上橋菜穂子氏と同様ですが、それに加え魅力的なのが、中野氏が「何もわからない」という状況からどんどん「すごく知っている」人になっていく過程です。すごく親しみやすく、相手をリスペクトする性格をお持ちなのだろうな、と羨ましくなるとともに、「今のオーストラリアは日本から来た人にお金を出してFirst Nations Peoplesに関する調査をさせてくれるのか?」という時代背景のエキサイティングさに目が釘付けになります。

 

これは中野氏の他の著書

カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットはなぜ死んだか-にも共通するもので、彼のFBIっぷりが素晴らしく、この本を高く評価しているオーストラリア在住日本人の方もブログで紹介していたり、実際に中野氏は受賞されたりしています。上述のブログ記事で「あぁ~日本人…!っていう結末」と紹介されていた意味が、本当に最後の最後でわかるのです。鳥肌もの!

 

というわけで中野氏のどんどん調査する姿勢と少しずつ事実が明らかになる様子にハマり、また「オーストラリアにいる日本人」の根源とも言えるブルーム(Broome、西オーストラリア州)の真珠貝採りダイバーとFirst Nations Peoples、その他色んな人種や文化の共存について探るべく、

マリーとマサトラ 日本人ダイバーとアボリジニーの妻-も読みました。もうあまり流通していないみたいで、私も古書を結構探しました。今のブルームはどんな感じなのでしょう。First Nations Peoples、ホワイト、中国、日本、フィリピン、マレーシア、インドネシアの人々が色々混ざっているかと思えば差別というか分断もあって、という複雑な時代に、共に生きることを決めて家庭を築いたマリーさんとマサトラさん。

 

(関係ないですが「毛唐さん」というのは欧米人への差別用語らしく、文中に時折出てくるのですがその意味がわからず「毛唐さんっていう日本人が地主として色々意地悪してるんやな💦」とか思っていました。毛唐さん、なかなか本人登場しないから何?と思って調べたら白系オーストラリア人のことを指していたようです。)

 

最後に、動画では

がすごく示唆に富むものでした。何でこんな大作を無料で公開しているんでしょう?

 

実は、私がオーストラリアに行ったのは、仲の良かった友達に誘われて気軽にhave funしよう、という動機だったのですが。その友達はオーストラリアに長く住んでいて、色んな情報を私に教えてくれました。両替はあそこがいいよ、このお店はお得だよ、などなど。その中でFirst Nations Peoplesについて彼女が私に「教えてくれた」のは「お金ちょうだい、と寄って来られるから、あまり近づかない方がいいよ」でした。

 

私は色んな国に行き、顔も肌の色も文化も言語も違う人と知り合い、彼らから学び、彼らと対等に日本人として生きる道を探ってきたはずなのに、この時はFirst Nations Peoplesのことを「知らない」から、「知っている」友人の言葉を信じて、恐怖を抱いてしまったのです。今振り返ると恥。恥、恥!

 

最後に紹介した動画では、暗い道でFirst Nations Peoplesの子ども達がたむろしているシーンが出てきます。友達から「近づかない方がいいよ」と言われた時の私がこのシーンを見たら、怖いという印象を抱いていたかもしれません。でも動画を冒頭から見続けて、彼らの人生の主役として立ち居振る舞いする彼らを見たら、「あ~家に帰ってるねんな」で終わるのです。

 

私がソーシャルワークを学びたいのは、ソーシャルワークというレンズを通して世の中を見ると、自分がどんどんマシになっていく感覚があるからです。そしてマシになるためにはソーシャルワークを追求する以外にも、「知る」ことがすごく重要だと実感しています。

 

上橋菜穂子さんが文化人類学者としてFirst Nations Peoplesのことを「調査」することは気が引けた、というのはよくわかりますが、私はこうした方々の解釈を通じてFirst Nations Peoplesのことを少しずつ知り、知ることで自分の中にある最低な差別を払しょくするための努力を絶やさず生きていこうと思います。

 

まぁでも本当に、人間を調査の「対象」とすることって本当に難しいですよね。できれば調査や記事のネタにするためでなく、何かしらのきっかけで知るようになり、それを広めることで世の中の偏見が少なくなる、という流れがいいように思います。(ワーホリしてまで引きこもっていたネクラが言う)

 

っていう話でした。

 

この記事は下記のnoteからの転載です。

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フィリピンで自己肯定感爆上げ

私は頭が悪い上に見た目は「世間がなりたくない姿No.1のパーツを集めた」感じ(顔でか、頬骨出てて顎が大きい、目は腫れぼったく、鼻は上を向き唇の色は白、首がなくてデブでお尻がなくて脚が短い。さらにデコが広くてほぼハゲ)の生き物で、性格もひんまがってて暗くて「生きててごめんなさい」と思う系の人間なんですが(笑)。

 

フィリピンで働いていた時に「イエーイ アイアムプリティ!人生最高!生きてていいよ、私!」と思えるようになりました。別に「フィリピンに行け」とは言わないし(というか最近英語留学する人がすごく増えたので私が勧めるまでもない)、ただの出来事の振り返りです。

アイアムプリティ

 

フィリピンの人、すごーく褒めてくれるんです!!「素敵な服ね」、「今日も美しいね」、などなど。もちろん人によりますが、「この人、私と話せて嬉しいんだろうな」とめちゃくちゃ強く感じることもよくあります。

 

要因の1つ(あくまで仮説です)は「Due to colonization(植民地だったから)」(私が入院した時の担当ナースの言葉。夜中にナースの集団が何回も部屋にやって来ては「外国人だ」「何人?」「日本らしい」とボソボソ話し合って出ていくことについて「何で!?」と聞いた時の返事)…。フィリピンはスペインとアメリカ、日本に植民地化・統治されていた歴史が長く、「外国人は素敵」という意識が根付いているとのこと。

 

確かにフィリピンで「美人」の定義は色が白く髪の毛がストレート、というものらしく(最近は変わってきていると思います)、芸能人やミスユニバースなどのコンテストでフィリピン代表になる人はミックスが多いです。スペイン系の先祖を持つ人もいますし、フィリピン人が世界進出しているから国際カップルが増えミックスが多いというのもあると思われますが。

 

私のような見た目でも「外国人だから」「色が白いから」という理由で「美人」にカテゴリーしてもらえて何とラッキーなのでしょう。私はフィリピンの人の健康的で茶色いすべすべのお肌が羨ましいですが。「私ってブスやし…」みたいな卑屈を言うと(←まず言うなよ…)「何言ってんの!あなた超美しいわよ!!!」と励ましてもらったり、現地の人に話しかけた時に口角めっちゃ上がって瞳孔開いてる?様子から「この人、私と話せて嬉しいんだろうな」と感じられたりすると、何だか日本にいた時に「私ってブス過ぎて人と目が合うのかな…それともサトラレ…?」と世間に対して背を向けたくなっていた自分が救われます。いや、キモ過ぎて瞳孔開いてんのかな…?

 

もう1つの要因は、フィリピン人は自分の愛し方を知っている、ということ。

 

見た目がどんなんだろうとそれをイジる人がいないからか、二重アゴ、鼻毛爆生えとかでも自分の姿が大好きでいつも自撮り🤳!会議中も「会議に出てる、俺。」みたいな自撮りが展開。鏡を永遠に眺めてられる❤️、みたいな人が多いです。だから私のように「私なんてキモくて顔デカくて脚が短くて…デュフフ」とか言い出す人が信じられないらしくて、「自分を受け止め抱きしめようよ」という意味で褒めてくれることが多かったのかもしれません。

人生最高

 

これは本当、フィリピン駐在をして1年近く経ったある日突然ふと思ったことです。

 

人生最高。

 

夢だった仕事に就けて、やりがい充分、英語で仕事するという中学の時からの願望も叶い(現地の言葉はマスターできず…まず英語から、ね)、週末には自然豊かな山奥に徒歩で行く、そして何より楽しく過ごせる友人がたくさんいる。

 

全て揃って初めて私は「あぁ、自分に生きる許可を出してあげよう。生きてて申し訳ないなんて思わなくていいよ、と自分を許してあげよう」と思ったのです。

 

もちろん仕事も友人も英語能力も遊びも、周りの支えと、それらを得る上での障害がなかったという幸運によるものです。当時はそこまで世界を見渡せず、自分の人生って最高、とただ思っただけですが。

 

これらの経験はフィリピンに行っていないと感じられないものでした。もちろんフィリピンに住むことで辛くなった経験はモリモリありますし、フィリピンにいた自分の愚かな振舞いや発言を思い出して恥ずかしくなることも多々あります。でもやっぱりフィリピンは自分にとってすごく大切な場所で、私に居場所があるということを感じさせてくれた恩は一生かけて返したいと思っています。

 

というまとまりのない話でした!

 

さらにまとまりのない話をすると、きっとアフガニスタンが私にとってのフィリピンのような場所だ、と思っている人もたくさんいるのだろうなと最近よく想像します。自分に大切な経験をくれたかけがえのない場所の大切な人々が人権を否定され、命を奪われているということはどれだけ辛いことなのでしょう。

 

また、日本でそういう経験を得られる外国出身者の方っているのかな。今のところは戦争がないから命が脅かされることはないけど、日常的な差別、抑圧(micro aggression含む)、入管センターでの人権無視がこっぴどい…。これがあるから一概に「アフガニスタンからの難民を日本で受け入れよう」と声を上げられない。

 

アフガニスタンから逃れたい人々を支援できる方法をご存じの方、教えて下さい。

 

この記事は下記のnoteからの転載です。

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書くことない理由を追求

最近のYouTubeTwitter、「オンラインサロン」とかを見ていると、自分の世界では触れることのできない情報に簡単に触れることがすごく重要視されていて、それは昔の、本しかなかった時代と変わらないのだろうけど、これだけ世の中のコンテンツが多いと競争に生き残るためにはよっぽど尖っている、珍しい、役に立つものでないと評価されないということなのだろうなと思います。

 

noteを始めたきっかけは、Instagramでエッセイ漫画を描いておられる方がnoteで有料記事を発表されたのがきっかけでした。その漫画もでしたが、今は誰でも発信者になれるけど、発信の内容が「専門家しか知らないこと」のようなものから、よりパーソナルな体験に広がっているように感じます。

 

エッセイ漫画、本当面白い。渡辺直美さんのYouTubeとか観ていても、彼女の日常を面白いトークとして発信していて、それがめちゃくちゃ面白いに尽きる。そんなに面白いことを面白く話せることが彼女の強みですよね、「鼻くそがすっげー量とれたから配信遅れた」とか。笑

 

渡辺直美さんが発信することは何も扇動していないし、だからこそ彼女の純粋に面白いし誰も傷つけないよう配慮されたトークを聞きたいファンが多いのだと思います。

 

何者かになりたい」は確かに一人ひとりが持っている願望で、それを叶える、利用するためにオンラインサロンも広がっています。「この人が言う意見なら間違いない」と、誰かに「考える」ことを委託してしまいたくなるし。そうやってネットワークビジネスとか広がるんだろうなと思います。そして人権を無視した差別発言で「この人がそう言うならその通りだ」と流されてしまう人が増えたり…。

 

まぁ何が言いたいかと言うと、最近書きたいことが結構あるのですが、何回も書き出しては消しています。私の話は全然尖ってないし、珍しくないし、役に立たないしな〜、留学行けたらその体験談は貴重な示唆を与えるものになるだろうけど、、と、書きたい気持ちがシュンっとしぼんで、ブラウザごと消しちゃいます(なのに下書きとして残っててギョッとしました)。

 

そもそもnoteで「書く」側になった(ほとんど読まれてないけど😂)のは、まず「私も、他の誰にもないような話を発信してみたい」と思ったからです。まぁここ数年はすごく内省的で、私は自分にしか詳しくないから意味ないな、という結論に至ったんですけど。(しかも自分のことを突き詰めて振り返った結果、「自分にしかないコンテンツって、性格がめっちゃ暗いことやな」との結論に至り、「全体的に暗い」という意味不明な名前になったんですけど。)

 

あとは留学を目指す過程って他の留学志望者にとって役立つものなのかなと思い、「留学行きたい」と発信することで自分にプレッシャーをかける意味もありました。まぁ私の場合は出願→合格というステップは拍子抜けでしたが、これから奨学金の獲得とビザ(コロナで難関度アップ)の話がありますので。

 

書こうとして消した内容は
・「やさしい猫」読書感想文、入管センターでボランティアした話を絡めて
・「カウラの突撃ラッパ-零戦パイロットはなぜ死んだか」読書感想文、著者の中野不二男氏を崇める話
・欧米人による吊り目イジリについて、欧米人だけじゃなくてフィリピン人も「吊り目」しぐさしてきて腹立つで、という話
・親に褒められずに育つと「褒められハングリー」にこじれて育ってしまう仮説
などなど。また気が向いたら書きまーす。

 

ところで「何者かになりたい」の著者熊代亨さんは「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」を書かれた方で、私はこの本をきっかけにソーシャルワークに興味を持ったのかもしれないと言っても過言ではないかもしれない(わからない)という感じです。「いづらさ」って、自分が悪いんじゃないのか、もしかして「いやすさ」を追求する生き方ってアリなのかな、と思わせてもらえたという意味で。

 

※一応GAFAに対抗する意味で本のAmazonリンクは極力控えますが是非本読んでみて下さい~

 

この記事は下記のnoteからの転載です。

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大学院選びの過程

前回は「ソーシャルワークとソーシャルポリシー、どちらを学ぼう?」というテーマで投稿しました。その後、やはり手に職(専門性)が欲しい!という大学院留学の目的を思い出し、とある国の大学院3つに出願しました。

 

3つとも合格できました!やったー!

 

そのとある国(言えよって感じですよね。でもどこまで情報を公開するのか現時点では決められず…というかエージェントさんとか関係者に見られたらシンプルに恥ずかしい)では「ソーシャルワーカー認定を受けられる大学院の入学基準はIELTS7.0以上+学部で何らかの社会科学、人間科学を学んでいること」と定められており、私は「何らかの社会科学、人間科学」を学んでいないと思って、条件付き合格になるか不合格になるか、ドギマギしていたのです。

 

ところが、現地の定義では私の学部時代での履修内容でも(きっと)社会科学と見なされるようで、無事に3校とも合格をいただけたのです。

 

最初の1校は、実際お世話になったのとは別のエージェントさんから「早めに渡航して補習を受けたら合格するかも」と言われていたところ。友人が別のコースでこの大学を出ており、とてもお勧めしてくれました。

 

2校目は、自分で探していて、上述のエージェントさんでは取り扱いのないところ。世界ランキング上位で、まさかそんなところに合格できるなんて♡♡♡と空も飛べちゃうくらい名誉なこと。1校目とのランキングの差がすごい。

 

3校目は、1校目をお勧めしてくれた友人と電話した時に「2校目のカリキュラムをちゃんと見ていなかったのだけど、とても大切なソーシャルワーク関係人口に関する授業がない。。泣」と愚痴ったところ、「この大学は多様な人への配慮や実践性が高く、お勧めだよ」と推してくれたところです。ランキングは1校目と2校目の間。

 

・・・とまぁ、ランキングも気になるところですが、それぞれいいところと悪いところがあり、決めにくかったのですが、多分3校目を第一志望として、奨学金を申請します。

 

※合格はいいものの、めっちゃお金がないNPO職員なので、奨学金をもらえないと留学できないのです。

 

比較のポイント

・カリキュラム
ソーシャルワークは多様な人々と関わるもので、子ども、少数派、高齢者、などなど、多様な人口層に関する授業があることがポイント高い。2校目は重要な人口に関する授業がないのです(ということに気付かず出願してしまった)。もちろん社会政策とリサーチの授業が充実していることも条件にしました。


・クリティカルソーシャルワーク
ラディカル、AOP(Anti-oppressive Practices)など、ソーシャルワークの価値をブレさせないために原点に立ち戻り批判的な見方を以て実践するという視点。2校目にこういうリサーチ実績はなく(さすが名門エリート?)、1校目と3校目は授業で取り上げられます。

 

・ボランティアやバイトの機会
奨学金をいただけたらバイトは不要ですが、、他にソーシャルワーク留学をしている方のブログを見ていて、ボランティアで現地NPOの経験を積むということはとても重要だと思うようになりました。ただ、1校目はかなり地方部にあり、ボランティア・バイトをするには車で移動をしないといけない模様。できれば家の近くで学びも仕事も済ませたい…。

 

・学生へのサポート
留学生ですのでアカデミックライティングなどについての無料相談があるとありがたい。1校目は友人によると「あった」けど教員は「聞いたことがない」、2校目はマンモス校なのであまり手厚くない、3校目は手厚そう。

 

これらを点数化して第1志望を決めました。やはり友人からの口コミの影響力が強いです。2校目は営業スタッフの方とオンラインでお話をさせていただきましたが、「我ら名門!我らに合格を与えられし汝は名誉あることだと思え!」みたいな中身ないアピールをされて、少し不安になり、3校目への出願を決めたのでした。世界ランキングは惜しいけど、その恩恵が自分の学生生活にもたらされるとは思えない。

 

というわけで奨学金申請のために色んな論文を読み込んでいるのですがなかなか進まないので気分転換に投稿してみました!奨学金取れず留学を諦めることになったら気まずいのでnoteからはドロンするかと思います~へへ。

 

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誰に聞いたらいいの!?ソーシャルワークと社会政策

色々知識を蓄積して、そのアウトプットとしてnoteを活用したいと思っていたのですが、全然蓄積されていません。私のnoteのイメージは「他の人が知らない・思いつかないけど自分だけが知ってる・思いついたことをシェアする場」みたいな感じなのですが、今回の投稿は「誰に聞いたらいいの!?」っていう、皆様への質問です。きっと私のnoteにたどり着く人はかなり少なく、その中でもこの質問に答えてやるゼ!な人はさらに少ないと思いますが・・・。

 

私はソーシャルワークを勉強したく、まず短期のソーシャルワークに関する講座を受講しました。資格につながるわけではないけど、基礎知識は身に着くかな、と。そこでの学びは

 

ソーシャルワーカーにはCode of Ethics(倫理規定)がある(大体は国ごとに)。所属先関係なくそんなのがあるって、すごくない!?私が今まで知らなかっただけ!?しかもその内容、私が大事にしたいことと一致してるぅー!それがprofessionalism、仕事になるってこんな素敵なことある!?


ソーシャルワーカー社会福祉士。職業タイトルに関係なくソーシャルワークを実践することは可能ではある。でももちろん資格がないと就けない仕事はたくさんある。


・しかしソーシャルワーカーにできることは政策に左右される。ちなみに戦後、日本の社会福祉政策が充実したことはない。

 

特に3つ目の点について、これほどエビデンスのないアホな文章もないよな(汗)、と思いますが、政策についての講義を受けて私はこういう印象を受けました。

 

社会正義を実現したくても政策に負かされるということですよね。そこで私はソーシャルワーカーが政策に影響を与え得るのかどうか、他国の事例を調べています。といってもドンピシャの情報はなかなか見つかりませんが・・・(そして日本と他国を比較した論文・文献もあまり見つからず)。

 

まず出てきたのはSocial Workers Affecting Social Policy: An international perspective (Gal, J., Weiss-Gal, I. (2015))。オーストラリア、イタリア、イスラエル、ロシア、スペイン、スウェーデンアメリカのソーシャルワーカー育成制度やソーシャルワーカーによるpolicy practice(政策実践)を紹介しています。まだ読み終えていませんが、どの国もやっぱり「ソーシャルワーカーは政府機関や政府からの助成を受けている非営利団体で働いているから、あんまり政策に物言えない風潮がある。ソーシャルワーカー自身のマインドセットとしても個人の問題解決に注力したいので規模の大きな働きかけは自分の役割ではないと思っている」というのが要約になるかと。

 

ちなみにsocial policy(社会政策)はpublic policy(公共政策)の一部で、

public policy and practice in the areas of health care, human services, criminal justice, inequality, education, and labor.
- Rittel, H. & Webber, M. (1973). Dilemmas in a General Theory of Planning. Policy Sciences 4:155-169

 

ソーシャルワーカーの活動分野に関わる政策という理解でよさそうです。これもちゃんと調べないといけないですが。

 

私は今、大学院のコースを検討している段階なのですが・・・ソーシャルワーカーになるためにMaster of Social Workに進むのか、ソーシャルワーカーになっても政策に負けるのであればいっそ、社会政策そのものを学ぶべくMaster of Social Policyにすべきなのか。

 

Master of Social Workのメリット:
・資格を得られる
・資格があるから就職につながりやすい(私は非営利セクターで働きたいと思っているのですが、非営利セクターの採用情報にソーシャルワークや心理系の資格が求められることが多い印象)
ソーシャルワーカーになるための科目が網羅的に学べる

 

Master of Social Workのデメリット:
・2年で資格を得るために資格勉強のようなカリキュラム構成である
・政策を取り上げる時間が少ない・もしくはない大学もある
・私の大卒学位では入学できない大学が異様に多い

 

Master of Social Policyのメリット・デメリット:
・Master of Social Workの裏返しという感じ。資格ではないので就職が未知数、でも学問としては面白そう。

 

私の大学院留学の目的次第ですが、迷っています。留学した後に現地の非営利セクター、できればアドボカシーをしている組織で経験を積みたいという希望があるので、そのための就職を考えるとMaster of Social Workか。現地就職せずに日本で再就職(今の職場でまた雇ってもらえるかも?)なら、Master of Social Policyか。

 

それぞれ、大学とコースは定まっています。やはり公共政策でなく社会政策どっぷりのMaster of Social Policyと、私の大卒学位でも入学できそうなMaster of Social Work。どちらも意図せずとてもレベルの高い大学院なので、まず受からない可能性が高いのに悩まないといけないという。。笑

 

どうしたらいいの!?誰か、ヒントになる考え方や事例を教えて下さる稀有な方がおられれば・・・または誰に聞いたらいいか、提案があれば、お願い致します!!!!

 

 

この記事は下記のnoteからの転載です。

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今は無事に、そして謎にMaster of Social Workに合格致しましたー!

 

「昨日までの世界」と今日の世界

ジャレド・ダイアモンド氏の『昨日までの世界』を読んでいます。英語版のタイトルは"The World Until Yesterday"。タイトルが魅力的過ぎて、そして記憶力がなさ過ぎて、日本語版と英語版の両方を買ってしまったのです。

 

"The World Until Yesterday"では、ニューギニアで長年調査をしてきたダイアモンド氏が、その経験を通じて、過去数十年で「現代」に連れてこられたような社会を持つニューギニアと、数百年掛けて「現代」を築いてきた欧米社会を比較しています。

 

アメリカ人であるダイアモンド氏から見ると非合理な行動や考え方は、「昨日までの世界」、つまり欧米が過去に置いてきた世界においては、説明がつくものなのです。例えば、「ニューギニア人はめっちゃよく喋る」。これは、ダイアモンド氏によると、本やラジオ、テレビ、インターネットなどの情報源がない社会では、お互いの情報交換が極めて重要であることに起因とのことです。

 

なるほど、本やラジオ、テレビ、インターネットがなくて当たり前の世界では取り留めなく話すことすら大切な情報源なのか。

 

そこで私がふと思ったのは。おぉ、今時(特に私がTwitterでよく目にするツイートに限って言えば)よく言われている「本は教養なんだからたくさん読め!」「本をたくさん読んでいる人との会話は教養が表れて面白い」「本を読んでいると人生が充実する」などなど、本を読む=正義という価値観と違う世界や!です。

 

本がある世界があるいうことは本がないという世界もあるわけで、そこで「本がある世界に生まれて恵まれているな」と思うのではなく、「本がない世界では会話をたくさん持つことが合理的なのね。なるほど」と受け止めました。むしろ本のない世界ならこんなに日々追われるように読書に時間を費やす必要がないのか…いや、でもその代わり人とたくさん話さないといけないのか…どっちもどっちやな…みたいな。笑

 

私は人見知りなので知らない人と積極的に話すことは苦手なのですが、今の世の中、どんどん会話しなくても成り立つようになっています。それに反比例して、日々生まれる情報量はとてつもなく多く、「文明の開始から2003年までに作られた情報量と同じ情報量が2日で作られる」とエリック・シュミットが言っていた、とケン・ロビンソン氏の『才能を磨く 自分の素質の生かし方、殺し方』に書かれていました(又聞きー!)。

 

もう、確かに。ほんま。用事もないのにインスタ、TwitterFacebookを見る(TikTokは苦手)。更新するたびに新しい投稿があり、少し目を離すと「また新しい投稿あるかな」と確認したくなる。本を読んでいてもウズウズ。そして最近太り過ぎなので、ダイエットサークルみたいなオンラインサロンに入って、そこの動画を流す。さらに昨日NHKプラスに追加料金なしで入れると知ってインストール。情報溢れまくりですよ…。少し情報源を減らして、オフラインの時間を増やしたいなと思いつつnote書いてーーる!

 

私が一番見るのはインスタです。大好きな友人や家族の様子を窺ったり、ダイエット情報やレシピを探したり。でも雑音もすごく多い。個人的にはTikTokからの転載とか(苦手やから。笑)、他の人のリポスト、既にガリガリの人のダイエット情報とか、私の目的と違うんですね。パーソナライズがもう少し進化したらマシになるでしょうか。

 

インスタはビジュアル寄りなのに反して、Twitterは文字情報メインなので流し読みをして気になる情報をスクリーンしやすいとは思います。が、自分がフォローしている人がやたらいいねする人だったら、興味ないツイートもたくさん溢れて困っています…。

 

これはデジタルデバイスに奪われた家族や友人との時間を取り戻そうという話ではないです。いくらパーソナライズが進んでると言っても、自分にとって大切だと思われる情報が目や耳に入るように意識的に操作しないといけないな、その方法を探らなければいけないな、という自戒です。

 

『昨日までの世界』トークが変な終わり方になりますが、今日の世界にいる身として、そして多分残りの人生数十年もその世界にい続ける身として、もう少しスマートに情報のスリム化を図りたいと思います。

 

この記事は下記のnoteからの転載です。

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不寛容な私はソーシャルワークを学びたい

noteの運営さんの対応が批判されており、その内容を色々な方のまとめや説明で拝読しました。これは他の媒体への投稿を検討する機会になるかなと様子を見ている間に年が明けましたね。

 

結論としては…決まっていません。運営の方々の価値観で納得いかないところは散見されるような気がするものの、今後よくなるかもしれない。

 

ただ、商品やサービスだけでなくその開発者や販売会社の理念とかを応援して利用することが増えてきたので、自分が利用し得る商品・サービスについて、その売り手の考え方を追及することをやめてはいけないなと改めて思うようになりました。

 

さて、私はソーシャルワークを勉強したくて、その理由の正当化を日々考えています。正当化というか「何でソーシャルワーク?」の説明を考えています。

 

最初はコロナで日本の学校が閉鎖したことに急に不安を覚えたことがきっかけです。学校って、学力をつけるのはもちろんで、そのためにタブレット端末を配布するとか、端末だけでなくWiFiが要るでしょうとかいう議論がされていたところです。でももっと気になったのは、「学校にしか居場所がない子はタブレット端末やWiFi環境があっても意味がないのでは?」ということ。

 

結構居場所という概念に関心を持っているんだなぁと改めて再認識した瞬間でした。自分のことでいっぱいいっぱいな私自身が自分のための居場所探しに必死だったからかも?まだここは不明。

 

新聞を読んでいるとコロナによって子どもを取り巻く状況がどんどん苦しいものになっているとの記事が日々増えていきました。休校により給食がないから栄養のある安価な食事を代替で提供する必要があること。シングルペアレンツがコロナで職を失い子どもにも影響を与えていること。

 

そんな、明日の暮らしすら苦しい状況に陥る人が毎日増えている中で。私の仕事は「未来のために頑張ろう」系で(何それ)、未来のために今コツコツ頑張ることを推し進めることから、頭がよくて社会的に「いい」位置におり、未来を築く力と意欲のある人と働くことが多いのです。一方、コロナによりさらに可視化された「未来を夢見る余裕がない人達」の存在。可視化といっても、ずっと苦しい思いをしている人達はおられたのだと思いますが、私が見ていなかっただけ。

 

そしてそういった存在の人達(英語でmarginalizedとよく表現されている)と歩むことについて学びたい、と考え、ソーシャルワークに興味を持ち始めました。

 

でも私の性格はとにかく自己中で余裕がなく他人に対して不寛容なのです。それってソーシャルワークの大切な価値観の正反対です。でもだからこそ学びたいのかも。本当に自分にうんざりしている私は、これまでも勉強や仕事を通じてその穴埋めをしたいと考えてきました。

 

その辺りかな。さらに言えば、日本の社会福祉士という資格のための勉強というよりは、学問として学びたいし、法律や政策で守れない人達にリーチするために市民団体サイドの取り組みについて学びたいとも思います。でも苦手な法律を理解できないと、リーチしても正しい方向に物事を進められないのも事実。

 

この考え方がストンと腑に落ちてから、仕事でも不寛容度が少し減ったような気がします。仕事が苦手な同僚に対して優しくできないことをかなり引きずっているのですが、ソーシャルワークについて学ぶことで実践として他者の受容をできるといいな。。

 

この記事は下記のnoteから転載したものです。

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