編(アム)

オーストラリアでソーシャルワーカーになった中年の話

書くことない理由を追求

最近のYouTubeTwitter、「オンラインサロン」とかを見ていると、自分の世界では触れることのできない情報に簡単に触れることがすごく重要視されていて、それは昔の、本しかなかった時代と変わらないのだろうけど、これだけ世の中のコンテンツが多いと競争に生き残るためにはよっぽど尖っている、珍しい、役に立つものでないと評価されないということなのだろうなと思います。

 

noteを始めたきっかけは、Instagramでエッセイ漫画を描いておられる方がnoteで有料記事を発表されたのがきっかけでした。その漫画もでしたが、今は誰でも発信者になれるけど、発信の内容が「専門家しか知らないこと」のようなものから、よりパーソナルな体験に広がっているように感じます。

 

エッセイ漫画、本当面白い。渡辺直美さんのYouTubeとか観ていても、彼女の日常を面白いトークとして発信していて、それがめちゃくちゃ面白いに尽きる。そんなに面白いことを面白く話せることが彼女の強みですよね、「鼻くそがすっげー量とれたから配信遅れた」とか。笑

 

渡辺直美さんが発信することは何も扇動していないし、だからこそ彼女の純粋に面白いし誰も傷つけないよう配慮されたトークを聞きたいファンが多いのだと思います。

 

何者かになりたい」は確かに一人ひとりが持っている願望で、それを叶える、利用するためにオンラインサロンも広がっています。「この人が言う意見なら間違いない」と、誰かに「考える」ことを委託してしまいたくなるし。そうやってネットワークビジネスとか広がるんだろうなと思います。そして人権を無視した差別発言で「この人がそう言うならその通りだ」と流されてしまう人が増えたり…。

 

まぁ何が言いたいかと言うと、最近書きたいことが結構あるのですが、何回も書き出しては消しています。私の話は全然尖ってないし、珍しくないし、役に立たないしな〜、留学行けたらその体験談は貴重な示唆を与えるものになるだろうけど、、と、書きたい気持ちがシュンっとしぼんで、ブラウザごと消しちゃいます(なのに下書きとして残っててギョッとしました)。

 

そもそもnoteで「書く」側になった(ほとんど読まれてないけど😂)のは、まず「私も、他の誰にもないような話を発信してみたい」と思ったからです。まぁここ数年はすごく内省的で、私は自分にしか詳しくないから意味ないな、という結論に至ったんですけど。(しかも自分のことを突き詰めて振り返った結果、「自分にしかないコンテンツって、性格がめっちゃ暗いことやな」との結論に至り、「全体的に暗い」という意味不明な名前になったんですけど。)

 

あとは留学を目指す過程って他の留学志望者にとって役立つものなのかなと思い、「留学行きたい」と発信することで自分にプレッシャーをかける意味もありました。まぁ私の場合は出願→合格というステップは拍子抜けでしたが、これから奨学金の獲得とビザ(コロナで難関度アップ)の話がありますので。

 

書こうとして消した内容は
・「やさしい猫」読書感想文、入管センターでボランティアした話を絡めて
・「カウラの突撃ラッパ-零戦パイロットはなぜ死んだか」読書感想文、著者の中野不二男氏を崇める話
・欧米人による吊り目イジリについて、欧米人だけじゃなくてフィリピン人も「吊り目」しぐさしてきて腹立つで、という話
・親に褒められずに育つと「褒められハングリー」にこじれて育ってしまう仮説
などなど。また気が向いたら書きまーす。

 

ところで「何者かになりたい」の著者熊代亨さんは「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」を書かれた方で、私はこの本をきっかけにソーシャルワークに興味を持ったのかもしれないと言っても過言ではないかもしれない(わからない)という感じです。「いづらさ」って、自分が悪いんじゃないのか、もしかして「いやすさ」を追求する生き方ってアリなのかな、と思わせてもらえたという意味で。

 

※一応GAFAに対抗する意味で本のAmazonリンクは極力控えますが是非本読んでみて下さい~

 

この記事は下記のnoteからの転載です。

note.com