編(アム)

オーストラリアでソーシャルワーカーになった中年の話

大学院が始まって2か月 ソーシャルワークと私のシンセシス

ぼーっと生きていたらオーストラリアに来て2か月が経っていました。1学期は13週あるので、半分が過ぎたところです。

 

疲れた話

 

4月半ばはイースターでお休みでしたが、その前の週にちょうど疲れがやってきて「もうやだ!!」状態になっておりました。

 

まず会話していて無視される。これは分析するに、ネイティブによる「この人話してるな、でも無視しよう」と意図しての無視ではなく、私の英語が英語として認識されていない。まぁ日本語訛りの発音だしあんまりはっきり喋るタイプではないので話していることに気付かれないのでしょう。

 

時々意図して無視されることもあります。英語が下手だから「こいつの話の内容は大したことない」と判断されるというか、頭の回転がいつも以上に遅く話すのもしどろもどろの時は、喋っている途中で相手がlose interest in my talkしていくのが目に見えてわかります。

 

これは練習あるのみで誰も悪くないことなのですが、重なって「もうやだ」になってしまいました。

 

次に、留学生をサポートする担当の人とそりが合わない。ここで紹介した、ソーシャルワーク学科の留学生サポート担当教員の人と合わないのです。彼女は他の教員に「本当に素晴らしい人だ」とべた褒めされているので、私も好きにならないといけないかな~とちょっと同調圧力を感じてしまっていましたが、まぁ合わない人と距離を置くのは精神安定の鉄則。せっかくのリソースですが彼女なしでやっていくことにしました。

 

別に彼女が悪い人とかではないので、サンシャインコースト大学でソーシャルワークを学びたい人は是非彼女と会えるのを楽しみにして下さい。

 

まぁそういう小さなことに不満を抱えるのも疲れている証拠、ということで、イースター前の1週間は授業・バイトの合間のリーディングをお休みし、ひたすら日本語で漫画を読んでダラダラしました。結構回復しましたよ。

 

今週はとある授業で自分の興味あるトピックを選んでグループになる、というアクティビティがあったのですが、私と同じトピックを選んでいたクラスメイトが途中で別のグループに移動しました。去る時に冗談で「私じゃなくて、あなたが理由で移動するのよ!(It's not me, it's you:恋人と別れる理由で多い『あなたに原因があるんじゃなくて、私が悪いの It's not you, it's me』の逆)」とジョークで言われてしまい、それってよく考えたら英語が下手で意見も大したことない私とは別のグループに行った方が充実する、と判断したってことかな?と悶々考えてしまいつつ、元気になったのでまぁそれでもいっか。とのんびり暮しております。

 

ソーシャルワークを学ぶのが楽しい話

 

まぁ楽しくなかったことがないくらいなんですが。ソーシャルワークという学問を見つけて、しかも日本の福祉に絶望するのではなくオーストラリアで学ぶことにした過去の自分を褒めてあげたいものです。

 

他の学生が「チュートリアル(対面授業)行きたくない」「モチベーションが湧かない」「課題きつい」「しんどい」ととにかく苦しんでいるので、何で皆そんなにしんどいのー?と思った結果、やっぱりソーシャルワークを学ぶ覚悟の違いかなという結論に至りました。

 

こちとら夫を置いて全然言語の違う国から、しかも30代半ばになって来とんじゃい。何の勉強をしても自分の母語で学べたり、これからいくらでも進路の変更ができたり、といったネイティブの若者とはちょっと覚悟が違うのかも、と。しかもソーシャルワークはオーストラリアの永住権につながる職業だから、という理由で選んでいる留学生はもっとしんどそうです。

 

ソーシャルワークは内省(self reflection)を非常に重視する分野です。特に1年目でまだ入門編の学びである今の段階では、私、この内省はめっちゃ得意。自分のことばかり考えていて、何で私ってそういう風に考えるんだろう?といつも悶々している私にとって「self reflective journalを書け」といった課題はお茶の子さいさいなのです(まだ採点されて返ってきたことがないから上手く出来ているかは不明。笑)!

 

学ぶ内容全てが自分の実感とつながって入ってくるから、課題図書も時間が掛かるけどちゃんと読みたいし、チュートリアルには全部参加して他の人と意見交換したい。そこで、私生活が忙しく準備をできずチュートリアルに来る他の学生に巻き込まれるのが嫌なのです。もっと余裕持たないとなー。

 

課題の1つで「自分の実践のフレームワークをつくる」というものがありました。ソーシャルワーカーになるにあたって、どういう価値を中心に置いてどういうセオリーを選ぶのか、また、その根拠や原因となった体験はどのようなものか、と振り返るものです。

 

これを考えていた時に「自分の特権へのレジスタンス」が思いつきました(というか自分の中のモヤモヤをダラダラ説明していたら、教員が上手くまとめてくれた)。自分は日本で最もメインストリームな、先祖何世代も自分を日本人と思ってきた家系の両親のもとに生まれ、中流階級で教育を受けさせてもらい、言語や民族を理由に差別されたり、性を理由に不当な仕打ち・被害を受けたりしたこともほとんどない(小学校の時の担任に、「女は絶対生涯で1回は痴漢に遭う」と注意喚起を受けていたのですが、それもなかった)。むしろギリギリ生活でもオーストラリアに来て高い学費を払って勉強できていて、それこそが特権。だからって、自分さえよければいいという風にはならないです。逆に居心地が悪い。だってその状況に疑問を持たなければ、supremacy(一方を優先することで他方の抑圧につながること。白人至上主義を指してwhite supremacyという文脈で使われる)に参加していることになるでしょう。

 

自分が特権を持っているのであれば、それを特権を持たない人のために使いたい。それがレジスタンスであり、私にとっての「社会正義」の定義なのです。

 

という問題意識でソーシャルワークの勉強をやっております。今は学習で吸収することが多くてエキサイトしているけど、そのうち実習が始まったらしんどいことが多くて「何も知らない特権ある立場に戻りてぇ~~日本でマジョリティとして生きてぇ~~」とか思うんですかね。でも戻ろうとしたら戻れるという選択肢を持っている時点で居心地が悪い。

 

円安で学費が払えなくなったら日本に帰るかもしれませんが、、、今のところはこんな感じで自分とソーシャルワークの関係を見ております。