編(アム)

オーストラリアでソーシャルワーカーになった中年の話

不寛容な私はソーシャルワークを学びたい

noteの運営さんの対応が批判されており、その内容を色々な方のまとめや説明で拝読しました。これは他の媒体への投稿を検討する機会になるかなと様子を見ている間に年が明けましたね。

 

結論としては…決まっていません。運営の方々の価値観で納得いかないところは散見されるような気がするものの、今後よくなるかもしれない。

 

ただ、商品やサービスだけでなくその開発者や販売会社の理念とかを応援して利用することが増えてきたので、自分が利用し得る商品・サービスについて、その売り手の考え方を追及することをやめてはいけないなと改めて思うようになりました。

 

さて、私はソーシャルワークを勉強したくて、その理由の正当化を日々考えています。正当化というか「何でソーシャルワーク?」の説明を考えています。

 

最初はコロナで日本の学校が閉鎖したことに急に不安を覚えたことがきっかけです。学校って、学力をつけるのはもちろんで、そのためにタブレット端末を配布するとか、端末だけでなくWiFiが要るでしょうとかいう議論がされていたところです。でももっと気になったのは、「学校にしか居場所がない子はタブレット端末やWiFi環境があっても意味がないのでは?」ということ。

 

結構居場所という概念に関心を持っているんだなぁと改めて再認識した瞬間でした。自分のことでいっぱいいっぱいな私自身が自分のための居場所探しに必死だったからかも?まだここは不明。

 

新聞を読んでいるとコロナによって子どもを取り巻く状況がどんどん苦しいものになっているとの記事が日々増えていきました。休校により給食がないから栄養のある安価な食事を代替で提供する必要があること。シングルペアレンツがコロナで職を失い子どもにも影響を与えていること。

 

そんな、明日の暮らしすら苦しい状況に陥る人が毎日増えている中で。私の仕事は「未来のために頑張ろう」系で(何それ)、未来のために今コツコツ頑張ることを推し進めることから、頭がよくて社会的に「いい」位置におり、未来を築く力と意欲のある人と働くことが多いのです。一方、コロナによりさらに可視化された「未来を夢見る余裕がない人達」の存在。可視化といっても、ずっと苦しい思いをしている人達はおられたのだと思いますが、私が見ていなかっただけ。

 

そしてそういった存在の人達(英語でmarginalizedとよく表現されている)と歩むことについて学びたい、と考え、ソーシャルワークに興味を持ち始めました。

 

でも私の性格はとにかく自己中で余裕がなく他人に対して不寛容なのです。それってソーシャルワークの大切な価値観の正反対です。でもだからこそ学びたいのかも。本当に自分にうんざりしている私は、これまでも勉強や仕事を通じてその穴埋めをしたいと考えてきました。

 

その辺りかな。さらに言えば、日本の社会福祉士という資格のための勉強というよりは、学問として学びたいし、法律や政策で守れない人達にリーチするために市民団体サイドの取り組みについて学びたいとも思います。でも苦手な法律を理解できないと、リーチしても正しい方向に物事を進められないのも事実。

 

この考え方がストンと腑に落ちてから、仕事でも不寛容度が少し減ったような気がします。仕事が苦手な同僚に対して優しくできないことをかなり引きずっているのですが、ソーシャルワークについて学ぶことで実践として他者の受容をできるといいな。。

 

この記事は下記のnoteから転載したものです。

note.com